加藤 豊 神父
注) 小金井教会の人しかわからないかもしれないので、はじめに説明ですが「さくらまち」とは小金井教会の広報冊子のことです。こういうものは各教会にあって、それぞれ特徴があり、それがその教会の個性でもあります。通常なら年4回の発行ですが、いまはコロナ禍なので、変則的です。この記事は「さくらまち」の今後を考えるものですが、それだけだと内輪のテーマに過ぎないので、ただ、それを通して共同体的な営みの一面が伺えるのではないかと思い、ひとつの「読みもの」にしてた、という記事です。無論、小金井教会の人なら教会の広報活動についての一種の解説ともなるでしょう。
__________________________
「かたち」がどんなに整っていても、いつのまにか基本理念が忘れられ、しかも中身が充実していなければ、そのようなものには誰も関心を示さないでしょう。増して誤報や不正確な情報伝達ほどは、ともすれば人と人の間にヒビを入れてしまうことさえります。相手の立場、すなわち、ここでは読み手の人たちの側のことですが、そこに立脚もせず、そこから返ってくる反応にも無関心な「空打ち」のような発信くらい虚しいものはありません。それは作り手にとっても、読み手にとっても、無意味なものとなり、徒労感を抱く人が根をあげ、最後は発行責任者である主任司祭が継続か終了かの決断をするのです。
それにしても「どうすれば発行部数を増加せざるを得ないほどに読んでもらえるのか」、また「どうすればメディアがメディアとして健全に機能していく上でのポイントとなるのか」、といった試行錯誤、あるいは、持続力のうちにも変化をもたらすための閃き、そう、いわば新たに生まれるための「脱皮の如き営み」が生じるのでしょうか。
命あるものは生きようとしなければ死んでしまう。しかし、愚かさは絶えず賢き者にもつきまとい、漠然と「まるで死を知らずして生きるかのような生活」にわたしたちを向かわせます。「恒常性」は「惰性」となり、流されていくのです。そうやって「生きてはいても生きたい意欲が枯渇する」ような状態、つまり「死を包含した生に達することのない単なる生存」となってしまうのです。積極的に「生き生き」と生きようという意識は希薄となり、果ては生きながらも命の輝きが失われてしまうという、恐ろしい経験に突き当たります。
少々、大げさな話になってしまいましたが、情報の取り扱いはルーティーンワークのようにこなすことができない、ということは、ちょっと考えればわかることなのですが、実際にはルーティーンでまかなえるような誤解が蔓延っています。現代社会ではあらゆる職種が「本来の合理化」というものを取り違え、それどころか「合理化」の概念を勘違いしたままで話を前に進めてしまうので、「簡略」し「省略」した「マニュアル化」を、あたかも「合理化」のように思い込み、それが効率のいいものと誤認しています。
時間をかけて学ばねば身につかないことも即座に出来るとものだと錯覚し、そのような職場があちらこちらに見受けられます。生身の人間相手の仕事でさえも、「人間性に関心を持たずとも差し支えない」という馬鹿げた発想、もちろん全てがそうだなどといってしまえば明らかにいい過ぎです。細かな点では一人一人の意識に差があることでしょう。
司祭も他人事ではありません。教会もそうだし、病院までも、医師、教師、洗練された実績から図られる接客業など、数え上げれば切りがないが詰まるところ極めて人間性に飢えた人がそれを満たせる場としては、むしろ「飲み屋」のほうが気兼ねなく心を開ける場なのではないか、と思えてしまうほどです。それでいて、そういう場ほど感染リスクが高かったり、といった具合で、そう考えるとコロナ禍の現状はまことに悲劇的なのです。
マスメディアの現状もまたそうで、そりゃ最近の新聞が面白くないのを見ても、きっと誰もがそう思うでしょう。そもそも流布される情報を、もっと水面下にいてルーティーンの影に隠れた連中が細工し、情報機関が踊らされている感があります。ルーティーンワークに甘んじた結果、操作しているつもりがまんまと操作されています。もう国民のほうが既存のメディアより正確な情報を持っていることが珍しくなく、今後も紙媒体としての新聞がなくなることはないでしょうけど、受取手は予め「惰性」を前提に読むかもしれません。背後の何者かによる情報操作、政治的工作活動の根源は、直には見えてはこないが着実に進められていくでしょう。でも、そういう情報って、一皮剥けば結局は嘘ですからね。嘘だと知っていて受け取る顧客の心境は、その嘘の向こう側に何かの真実が読み取れるかもしれない、という希望でしょうか。
妥当で円滑な情報交換ができていなければ、相互で誤解し合い、不信感は人と人とを繋ぐことなく、逆に引き離します。相手が何を考えているかがわからないだけでも、人と人とは互いには不安を募らせるか、または、良くも悪くも誤解したままの認識に基づいて話し合うことになります。
「風評被害」という言葉を思い出します。長期化するステージ3において、惰性でもって情報を取り扱うことはもっとも避けたいことの一つです。容易に「集まることが叶わない」いま(の時期)。例えば平時なら、会ってゆっくり話してみたら誤解もすぐに解けた、という事例などは然(さ)もあらんことです。ところがコミュニケーション不足によって共同体が分裂してしまうことだって大いにあり得ると思しきことなのです(そこにコロナ禍です)。
容易に「集まれない」なかで、いかに「繋がる」か、またその「繋がりをどう保っていく」ことができるのか、差し当たり、無力で不器用なわたしに出来そうなことがあるとすれば(それだって所詮は不器用なわたしが思い浮かべたことに過ぎませんが)、それは「配布物による一貫した情報交換の方法」がどれくらい有効なのかを探ることくらいのことなのです。また、何か気の利いたアイデアが浮上してくるまでの間は、その有効性を切に願うだけなのです。