加藤 豊 神父
注) 小金井教会の人しかわからないかもしれないので、はじめに説明ですが「さくらまち」とは小金井教会の広報冊子のことです。こういうものは各教会にあって、それぞれ特徴があり、それがその教会の個性でもあります。通常なら年4回の発行ですが、いまはコロナ禍なので、変則的です。この記事は「さくらまち」の今後を考えるものですが、それだけだと内輪のテーマに過ぎないので、ただ、それを通して共同体的な営みの一面が伺えるのではないかと思い、ひとつの「読みもの」にしてた、という記事です。無論、小金井教会の人なら教会の広報活動についての一種の解説ともなるでしょう。
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コロナ禍における教会のステージ3が長期化しているため、そもそも次の「さくらまち」がいつ発行になるのかが解らない、という中で、わたしはその巻頭言を書くわけですが、それゆえ、次号の「さくらまち」を皆さんがお手にとってご覧いただいている場面を想像しつつ、「寒くなってきましたね」といってご挨拶をしようか、あるいは「春の近づきを感じる今日この頃です」といってご挨拶をしようか、はたまた「最近は暖かくなってきましたね」がいいのか、そういう見通しがつかないなかでの想像を巡らしました。とりあえず教会的に一番妥当な「主の平和」にしようかな、と思ったりもします。
実をいうと、いつ頃発行になるとしても、わたし自身は「あまり興味がない」というのが、いま(コロナ禍)にあるわたしの正直な気持ちです。「教会の広報誌の発行責任者たる小教区主任司祭が、自分の教会の教会報に興味がないとは何事か」と、お叱りを賜りそうな気もするのですが、もとより「さくらまち」の発行は、わたしが始めたことではありませんし、こうしたメディアというのは、時宜に応じてその度、見直しを繰り返し、読み手の皆さんにとって良いものを提供し続けたいという意識で続けなければ、そもそも教会の「紙(かみ)媒体」としての価値を失してしまいますし、その度毎の内容更新や企画立案があってこそはじめて、そこに命が吹き込まれていくものです。
しかし、人は常に同じことを繰り返すほうが(倦怠感を感じるまでは)楽であり、そのほうが何も考えなくて済む。これをして仮に「恒常性」というとします。こうした「恒常性」は人類だけではなく全生物の本質的な特性でもあります。病気回復の自然治癒力もこの恒常性によるものですが、ここでは「惰性」に類するネガティブな意味で使用することになります。特定のポジションに安住する人は、変化が起きたときポジションを失うのではないか、という不安を感じます。こういう心境も「恒常性」が根拠となるからです。その意味では、教会における奉仕の精神はポジション先にありきではなく、個人的な安住が全体の益とならない場合、そのポジションじたいが再考されます。
「さくらまち」も当然ながら他者性を有しており、「恒常性」を根拠にしたポジション確保から進められてはしまうなら本末転倒になりますので、いまのところ「秋冬合併号」が発行される予定になっていますが、現状を鑑みるに、このステージ3の間は発行されなくても構わないのではないかと思います。ほぼステージ1となったときに、ポジションを再考してから再開すればいいのではないかと。
わたしたち人間は、罪の中にあるとはいえ、神のかたちに作られた被造物であり、時代や社会状況、更には相互の交わりを考慮した工夫によって、創り主を賛美し、他者への奉仕をもってみずからも成長していく存在です(キリスト教的には)。わたし個人が始めたわけではない「さくらまち」にわたし自身は執着しませんが、しかし、そのままにしておけば「恒常性」に流されるだけで、一種の惰性となりかねないのではないかという懸念はあります。
もっとも「人間でいるのは面倒で、いっそ生物に戻りたい」という人もいるでしょうから、それならそれでもよくて「個人の自由」だと思いますから、「恒常性」に拠り所を置くことだって、生き方の選択肢としてあっていい。ただし、広報誌を発行する場合には、必ず相手があるはずなので、そうなると「個人の自由」だけでなく、相手のある話となるのです。
その意味では、いまの「さくらまち」の特徴は写真が中心で、当初これはとても画期的なことでした。そこには少子高齢化をはじめ種々の時代的な必要性が反映され、そのときの社会状況や教会内の実情に応えようとする試みでもあったでしょう。
教会運営や建物管理が共同体の使命で一番重要なわけではない。ただ、だからといって決して無視できない事柄です。運営委員会の議事録などは確かに「別紙」にして発行するやりかたもあるでしょう。しかし、ほとんど、どのような教会の教会報にも、関心がある人たちのために(また情報共有や説明責任及び報告の使命のような観点から)、その種の記事が載っているのが普通です。
当然「さくらまち」には「さくらまち」の個性があっていい。そこにはしっかりとしたコンセプトもあります。しかし、各会議の記録や報告事項の伝達は共同体の媒体の必須要素であり、特にいまの時期、写真だけではなく、文字の充実もまた、この「コロナ禍における情報流通」には(少なくともいまは)欠かせなくなっているのが現実です。そのような取り組みはステージ1に至るまでの期間、妥当なこととなり得ましょう。
とはいえ、大切さは理解できても、執着の点でいえば、わたしがはじめたのではない「さくらまち」を今後どう展開していくかについてのヴィジョンのようなものについて、いまのところ、わたしには気の利いたアイデアは残念ながらありません。「さくらまち」発行のための事前企画ミーティングのような話し合いの場も、これまた残念ながら設けられる可能性は現状からはないと察せられます(企画の提案は編集会議のなかで時々あるにはありますが)。
それゆえこの時期に即した「他の紙媒体」が必要となりました。この度の「教会だより」は、臨時の仮設メディアなのですが、これはわたしがはじめたものであるため(その意味での)執着はあります(といっても結局は期間限定の仮設の範囲内の執着ですが)。
教会の媒体(紙であれ、ホームページであれ)に限らず物事は一定期間、同じことを繰り返し続けるだけのほうが安定感に繋がります。しかしながら「恒常性」に流されたまま、ずっとそのままにしておくならば、結局それは惰性となってしまい、そうなると、いっそ新たに何か別のものを作るか、同じものでも大胆に更新して作り変えたほうが効果的です。
注意すべきは、急激にそうすると、それはときには混乱を伴います。だから妥当な軌道修正は、先ずは見直して基本路線を生かしつつ、毎回、新たな気持ちで取り組む姿勢をとるのが上策でありましょう。
(続く)