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マタイ福音書17章20節

加藤 豊 神父

 

 最近では会食の機会さえ困難になりました。でも、いまこれをご一緒に味わって見ることにしまょう。


 「あなたがたに、からしだね一粒ほどの信仰があるなら、山に向かって、ここから移れといえば、そのようになるだろう」(マタイ17・20)。


 経験したことはありませんが、主のみことばですから、信じます。ただ、これが聖書とは無関係な、単なる一地方の言い伝えに過ぎないものだとしても何となくそうなるような気がします。

 

 「動かざること山の如し」とはいうものの、それがどう動くのか想像もつきませんが、ただ、そのとき、動いたときにはきっと「動けと命じる自分」が変えられていると思います。

 

 自分を変えることのほうが、山を動かすことより難しい、あるいは、山を動かすくらい難しい、だろうと思えるのです。「信仰があれば」と主がおっしゃったその「信仰」とは、その意味で「自分がどう変われるか」また「変えられ、成長したいという思いを、カラシ種一つぶくらいでもは持っているのか」と、みずからを振り返らざるを得なくなってきます。そして、もし、持っているなら無限の可能性が絶えず開かれる、という励ましが、このみことばには含まれているのだろうか、と。

 

 しかし、人間は頑迷で易々と変わろうとはしないでしょう。成長させられるよりは、相手を成長させてやろうという上から目線を好むことのほうが多いように思えます。お互いにそうだとたちまち喧嘩になったりもします。よくないですね。それでもって山はいつまでも動かない。

 

 起きても不思議ではない奇跡でさえ、なかなか起こらない。でも、ほんの少しでも、カラシ種よりも、もっと小さなものだとしても、持っていることと、無いことでは全然違います。わたしたちはキリストの背丈にまで成長させられるように招かれています。自分は変わろうとせず、他人や世界が自分のために都合よく変わるべきだと、何故だかそう思ってしまうことがある。これも上から目線に偏る傾向なのでしょうか。でも、それでは、きっとそれに倍するくらい、いつまでも何も変わらない。

 

 どうすれば物事が善く変わっていくのでしょうか。絡まった糸を解すように、先ずは祈りのうちに心静かに振り返ってみる、というのはどうでしょうか。