加藤 豊 神父
「バットマン」に出てくる執事は「アルフレッド」、「アルプスの少女ハイジ」に出てくる執事は「セバスチャン」。
どちらもとても魅力的なキャラクターなのですが、二人とも主人に忠実で、自分が預かっているものが何であるのかがわかっている人ですね。彼らには彼らのプライバシーも意志もあって、主人から与えられた仕事に隷属しているわけでは決してない。そして目の前の全てが、主人のものであり、それを大事に守ることに生きがいを感じています。
かつてキルケゴールはいいました。
「牧師とは恋するものである」。
神なる主と、その民の関係性は「契約」概念で理解される一面がある一方で、例えば「旧約聖書」の『雅歌』について解説を著したニュッサのグレゴリオは『雅歌』の内容を「神と人類とが恋愛関係のように結ばれている」かのように解きます。
司牧(牧会)に当たる神父や牧師は、確かにキルケゴールのような感覚があるかもしれませんが、カトリックではこの感覚が一番求められるのは、いわゆる女子観想修道会でしょうか。わたしは修道者ではないので、その辺りの詳しいことはわかりませんが、ペトロを始め弟子たちは、いってみれば結局「イエスに惚れた」人たち、あるいは「イエスに憧れた」人たちだったということができるでしょう。
そして神父も牧師も与えられたものによって、与えられたもののなかで、与えられたものに対して謙虚にそれを受け取り、日々を生きています。与えられたものによって生き、お預かりしたものをやがては主人にお返しするように求められます。主人の宝を蔑ろにはできないことになります。
しかし、よく考えてみれば、こうしたことは神父や牧師に限ったことではなく、教会全体の使命かもしれません。わたしたちは主人の帰りを待つ僕のようなものです。神に恋するキルケゴールのその名前も、「キルケ」は「チャーチ」に通じる言葉だと聞いたことがあります。日本風に言い換えるなら「寺男」でしょうか、まあ「教会守」ですね。
「アルフレッド」や「セバスチャン」の立場は、執事と呼ばれたりするわけですが、カトリック教会の理解では、この執事は「助祭」という立場のそれです。神学生たちは、司祭になるために一旦「助祭」になるわけですが、本来の「助祭」というのは、執事のようなものでしょう。典礼上の役割や、聖職位階の固定観念からだけに注目してしまうと、これはなかなか見えにくかったり、誤解されたりする役務かもしれませんね。「寺男」「教会守」ですから、「縁の下の力持ち」なわけですね。地味だが、とても大事な仕事を担います。
そして「神学生が一旦、助祭になるのは司祭になるための」だけだ、というわけでもないはずです。やはり「司祭」になるためだけであっても、事実「助祭」の職をいただくわけですから、いざ「司祭」になっても、「助祭」ではなくなるのかというと、そういうことではないですね。
実際、小教区の主任司祭の場合、教会でのほとんどの仕事は、執事のような内容です。教会事務、電話など問い合わせへの対応、入門講座や聖書講座、また、業者さんたちとのやり取り、およそ宣教師さんたちのアグレッシブな仕事とは、ある意味で対照的かもしれませんね。
もちろん信徒の方々は、そういうことばかりを司祭に求めているわけではありません。むしろ、求められているのはもっと「らしいこと」なのかもしれません。しかし「助祭」がいない教会(海外はたくさんいますが、日本では少ない)のほうが圧倒的に多いですから、司祭は自分で(すでに「助祭」の役務も受けているので)それを行います。だから、司祭も執事「寺男」「教会守」です。
「アルフレッド」、「セバスチャン」なのです。