· 

複眼的視点は平安の源泉

加藤 豊 神父

 

 結婚式がありました。この時期の冠婚葬祭は基本的に非公開なので、非公開情報に責任を担う立場としては、毎回、複雑な心境です。気持ちの上では。

 

 結婚式などは特にそうですが、本当は沢山の人に呼びかけたい。しかし、クラスターが発生した他教会や他教派の情報が入ると、やはり要注意情報には拍車がかかります。ともあれ、必要な措置をとりつつ、一つ一つの物事を前に進めて行くしかありません。しかも、こうした事態を前にしても、人間には「心」がありますから、見解が大きく分かれるようなことについても、一人一人に耳を傾けねばなりません。

 

 ただ人の心と言うのは複雑で、神父一人が聞く耳を持っているだけでは何も始まらず、語り手と言うのは、常に新たな聞き手を求める傾向があるのは否めません。大げさなことを言うと、こうした経験からも人には人が必要なことはすぐにわかります。それはコロナ禍であってもなくてもそうだといえるでしょう。

 

 斯様な状況は、実は、人と人との会話の多くは「聞き手がイニシアティブをとっている」と言う現実を如実に物語ります。そこでこの構造に敏感なタイプの司祭であれば、例えばミサの後、「神父様、今日もいいお話をありがとうございました」と、その日の説教をお褒めいただいたときなどは、「いえいえ、聞いてくださってありがとうございます」といって憚らないでしょう。

 

 誤解を恐れずにいえば、単眼では物事の全貌は見えず、複眼であればその認識は物事の裏面にも及ぶことがある、と言うことでしょうか。わたし自身は、裏方気質と言いましょうか、自ら誰かに自己アピールを展開するのは、ちょっと苦手です。「苦手」と言うより、他者の立場や、そこから出てくる「その言葉」に「その自我」が溢れ出すのがどうにも真に知的なこととは思えない。それを一旦観てしまうと、「これでは聞き手にはなれないだろうに」などと、軽んじてしまうことがあるのです。

 

 つまり、単眼でものを見ていては、「蟷螂、セミを伺い、紅雀これを狙う」と言う罠にはまりそうに思えてしまうと言うか(これは喩えです。もとより昆虫は複眼だし、人間の眼の構造とは全く異なりますからね)。ただ、そうすると、実際のところ、「尊敬されているから崇められている」のか、「しがらみから他人は社交辞令を駆使して相対してくれている」のか、それらの実態は、自分でも嫌なときがあるくらい(手に取るように)解ってしまうことがあります。どうしても人間相手の仕事をしていると、その構造が見て取れてしまうことが多いからでしょうね(いいことではないと思いますし、礼を失することになっては大変なのです)。


 人望を得たいと望む場合は、何よりも先ず自己超克が課題となるでしょうし、それは「人は如何にして本当の自分となるか」と言う古い主題を思い出させます。でも単眼では無理でありましょう。しかもある程度、気持ちに余裕がなければ難しいでしょう。

 いわば、「なんでも思ったことをいってくれ、何をいわれても俺は怒らないから」といわれ、相手が自分に対して思っていることを聞かせてくれるよう頼まれたから、「言いずらいんだが、お前には短気なところがあってさぁ」と正直に答えたところ、言に反して怒られて後、「何をいわれても『俺は怒らない』と、お前はいったじゃないか」と言うような経験をしているかたは結構おられるのではないでしょうか。

 

 もう、そうなると尋ねてくる人の様子を見ながらでないと本当のことがいえなくなるし、そもそも答えた側が「尋ねられたから答えただけなのに」と言う悲劇的な(否「喜劇的な」かな?)ケースを避けるためには、尋ねる側は、絶対に、自らの言を蔑ろにしてはならないでしょう。そうでないと、やがては「誰も」「何も」いってはくれなくなってしまうし、果ては「言われないからこれでいい」と言う思い込みから、それが周囲に与える影響と言うのは、かなり大きなものがあると思うのです(人は人と生きていて、その「人」には「心」がありますからね)。

 

 では「気持ちの余裕」あるいは「複眼的なものの見方」は、どうすれば獲得できるのでしょうか。わたしが司祭だからこういっているとは思わないで欲しいのですが、それには「祈り」を覚えることから始めるのがいいのではないでしょうか。「失礼な、わたしは毎日祈っています」と、どうかそう言う意味で受けとめないでください。

 

 「祈ることじたい」が大切なのは言うまでもありませんが、ときには、その「祈りの内容」や「経過」にも心を向けてみてください。例えば「聞く祈り」である「念祷」のような「祈り」は、側から見れば退屈なものと映るかもしれません。だから、これだって「思い込み」の主体である自分自身から距離を取ると言う習慣がなければならないし、ある程度、慣れてなければなかなか「入っていけない」と言う人もいます(無論「念祷」に限ったことではないと思いますし、各人ともみずからがピタッとくる祈りを見つける必要性は言わずもがなですが)。

 

 しかし、幸い慣れてしまえばいいわけですから、誰にでも「入っていける」可能性があるわけです。「継続は力なり」というのは本当なんだなぁ、と思ったりもします。あっ、それはそうと、そもそも平安を欲する「その気があれば」というのが前提ですよ。