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辛苦のなかでこそ生じる他者性とは?

加藤 豊 神父

 

 世の中には、絶対音感を身につけている人がいます。けっこう皆さんのごく身近なところにおられるのではないでしょうか。中には、譜面を見ただけで最初の一音を声で出せる人もいて、よく見ただけで「キー」が解るものだな、と驚きます。

 

 わたしには、せいぜい、「かつてのLP版レコード」のほうが、CD録音よりも重低音が響くな、とか、トランジスタより、真空管のほうが音が柔らかいな、くらいしか解らず、絶対音感なんて何故解るんだろう、と思えてしまうわけですが、ピアノの調律師の人などは、これがないと仕事にならないくらいです。

 

 人と人とが理解し合うのは、簡単なことではありませんね。一人一人が同じものを見ているようでいて、見え方はかなり違いますよね。だから相手の見ているものが見えたときの喜びは格別です。おそらく同じものを見て、それを互いに追いかけているときには、その実感が倍になるのでしょう。

 

 しかし、世の中に「同じ人」が一人もいないように、違いばかりが気になることのほうが多いのかもしれません。よく、会話中に「同感です」というリアクションを相手が示すとき、本当にそうなのかどうかは少々、考える余地があるにせよ、大まかにはそこで纏まるものがあるでしょう。

 

 ご存知のように、アッシジのフランシスコは彼の「平和を願う祈り」の中で、「理解されることよりも理解することを」と願っています。共感を得たいと思うより、共感できるように、と、甚だ勝手にですが、言い換えてもいいかもしれません。今や皆、そこまでも気持ちの余裕がないのかもしれません。特に今はコロナ禍ですから、状況は一層複雑です。

 

 ただ、ほんの一例にすぎませんが、自分自身のこれまでを振り返ると、実際には、気持ちに余裕がないときとか、追い詰められ、孤独を感じているときのほうが、なんだか、相手の気持ちに寄り添えていたような気がします。多分、自分の惨めさを実感すればするほど、無理なくありのままの自分で人と関わることになるものだから相手と同じ目線で同じものが見えたりするので、相手もやさしい。

 

 更に自分の惨めさを実感している分、計らずもそこを指摘されたとて腹も立たずに「そりゃそうだよね」と笑えたりもする。そこで一緒に笑ってくれる人が相手なら、その後なんとなく仲良くなる。

 

 逆に余裕があることからやってくる独善ゆえに陥る孤独や孤立、それがきっかけとなって起きる苛立ちや憤懣、対立や驚嘆などは、人間には大いにあり得ると思います。

 

 あるもの(持っているもの)に常に感謝できる人は幸いです。無いものばかりが気になる人は、あるもの(持っているもの)では足りないという思いが心を占めてしまい、みずから渇きを招きます。だからといって「ありがたいと思いなさいよ」という(わたしも母からよくいわれましたが)、そういう教条的な示唆は、かえって逆効果なこともあり、(いっているほうが「ありがたく」思っていないなら説得力もないですからね)。それに、こういう言い方はちょっとね(親子の間であればともかく)。

 

 99円は100円ではありません。ただ、こうした貨幣価値と人の思いとは異なり、何であれ99あっても不十分だと感じるならば概ね100あっても足りないことがあります。つまり「こうしたい」という願望は増すばかりなので、次第に今あるものは当たり前のこととなって行きます。何かを得たいという気持ちは自然なものですが、それが落とし穴となることしばしばです。

 

 余裕がないときに湧き上がる共感能力は、同時に余裕があるがゆえに麻痺してしまうものともなり、それを思うと、余裕がないときの自分の立ち位置というのは、感謝する喜びに開かれた「とき」を目の前にしているといえるのかもしれません。