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普遍性への憧憬

加藤 豊 神父

 

 「和魂洋才」という言葉があります。これからお話しすることを念頭に置き、わたしはこの「和魂洋才」に類似する(と自分では思っている)「黄心欧言」という造語を重ねてみたいと考えました。

 

 キリスト教信仰と日本人の感覚との間に調和をもたらそうと、多くの先人たちが凄まじい努力のうちにこれまで苦闘してきました。わたしにはその偉大なる精神の後を追うのも恐れ多い思いがあって、あまり声高に、この問題を論じたくはありません。ただ、わたしの世代の人には、次のような経験をした人が少なからずおられるはずです(ちょっと話がそれるかもしれませんが)。

 

 「それまで黒人音楽には興味がなかったが『宇宙のファンタジー』を聞いたとき、自分の趣味に変化が起きた」という経験を持つ洋楽ファンが皆、味わったであろう懐かしい思い出。わたしもその一人です。しかし、あの名曲がきっかけで、それ以外のアースウィンドアンドファイアーのナンバーを聞きあさってはみたものの、それなりいいのはたくさんあるが、今尚、印象に残ってるのは結局「宇宙のファンタジー」だけだな、という。

 

 ところで、ソウルフルな音楽をよく「黒っぽい」と表現したりします。ある日本人アーティスト曰く「僕は日本人なので最終的には『黄色っぽい』ポップスを手がけていきたい」といっていた歌手がいました。これまた懐かしい。そういう表現を真似た言い方をすれば、例えば、カントリーウェスタンなどは「白っぽい」ジャンルということになるでしょう。

 

 クラッシックではロマン派などはモロに白っぽいということになりましょうか(グレゴリアンは迂闊に分けられないところもありますが少なくともビザンチン聖歌まで遡るなら、それは「白っぽい」とは言い切れないものであろうと思います)。時代を一気に1970年代後半に移しますが、クイーンのムスターファなどはアラビアンスケール全開ですから「茶色っぽい」ということになるのかも。

 

 さて、九州地区以外の日本のカトリック教会は未だなかなか黄色っぽくはならないからなのか、日本人受けしませんね。それでも(あまり目立たない仕方ではありますが)、ひたむきに「インカルチュレーション」(これも造語で、土着化といったニュアンスの意味らしいです)が進まないという事態に悩んでいる人たちはいるのです。

 

 まあ、そういう人たちでない限り「黄色い顔して白い話をしていたりするから仕方ない」のかもしれません。上記でクイーンを挙げましたので、今度はポリスも挙げますが、デヴュー当時、彼らは白人なのにレゲェのリズムやジャズの代用コードを多用していたので、「ホワイトレゲェ」なんて評されていましたね。でも、こんなことを言い出したらそれこそ切りがないと思うのは、そもそも、ブルースもジャズも、白人が黒人からもらったもの、というのが真相ですね。それを今では日本人を含めていろんな人種や民族また国民が愛するようになったわけです。

 

 さてさて、先述の「宇宙のファンタジー」は、音作りそのものは黒っぽいとしても、日本人にも大いに気に入られました。その理由というか、なんというか、楽曲の背後にある文化的背景や彼らの精神性に注目してみると、なんとなく「そういうことなのかな」という「わけ」もわかってくるのではないかと思います。

 

 皆さんは「ジャー」と呼ばれる信仰対象(といってもいいのかどうか)を知っていますか、サードワールドも挙げますが、そのグループもレゲェといえばレゲェで、「レゲェ」の根本には「ジャー」信仰が息衝いているので、音作りがどうであれ、サードワールドはレゲェでしょう。何しろ「トライジャーラブ」という曲があるくらいですから。

 

 この「ジャー」とは何かというと、ようは一定の枠組みに納めることができない信仰対象です。とはいえ、いわゆる「万教同根」の発想だとは思わないでください。人類の歩みがアフリカから出発したという説が事実なら,「ジャー」は「後からできた概念である万教同根」などとは比べ物にならない程、遠い昔の古い信仰対象です。わかりやすくいえば、やれ「一神教」だの、やれ「多神教」だの、そういう分類に当てはめられねいくらい、こんにち的な説明とは無関係な対象です。

 

 人類がこの地上に誕生し、そのときから、人間と、それを包み込む「広がる大宇宙」との関わりは、始まりました(その始まりさえ「ここからだ」とはいえないものです。当たり前ですが。そこには、そもそも「宗教」なんて言葉はなかったし「教え」以前の話なのですからね。「家族が死ねば悲しい」し、「新たな家族が生まれれば嬉しい」という心。だからそれは「同根」とはいえても「なんとか教」でもなんでもなく、そこには「感覚」と「感情」だけがあったわけです)。サードワールドのメンバーの一人が「ジャー」に関する取材に答えています。「世界各地であらゆる神が信仰されてはいるが、仏陀であろうと何であろうと、我々はそれを『ジャー』と呼ぶ」。

 

 くれぐれもこの発言を現代人の視点で「やっぱり万教同根のことじゃないか?」などと思わないでください。何しろ「トライジャーラブ」の歌詞は決してそんな理屈っぽいものではありません。「大宇宙の神秘に君も抱かれてみないか」といわんばかりの内容で(こういってよければ)宗教色はほとんどありません(それに対して「万教同根」は明らかに宗教色に満ち満ちた宗教用語ですからね)。

 

 「宇宙のファンタジー」が日本人に気に入られたのは、それが収録されたアルバムのライナーノートにも書かれているように
「この曲が日本人の琴線に触れてしまった」からであり、ここでいうその「琴線」というのは、おそらく「白黒黄色」に分類できない「人類が共通に秘めているであろう普遍的な感覚」なのではないかと、わたしは思うのです。

 

 それにしても、そのアルバムの日本語タイトルが「太陽神」なので、正直ちょっとねえ、という気持ちがあります。まあ「他に何かいいのがあるかと問われれば」確かにすぐには思い付かないですけどね。加えて、アルバムジャケット(個人的には気に入っているのですが)これまた横尾忠則さんのイラストで、一見「万教同根」的なものにも見えます。「これもなあ」と思ったりしますが、無論、横尾さんご自身にはおそらく「万強同根の勧め」のような意図はなく、もっと何がしかの理屈には由来しない素朴で純粋な気持ちからあのジャケット画を製作したとのだろうと思っていますが。

 

 それはそうと、紀元前後のパレスティナ地方で生まれたキリスト教って、本来、白っぽいものだったんでしょうか。これについては、実はかなり大勢の人がそのイメージから抜けきれないようなのです。だから「インカルチュレーション」が進まないのは、ひょっとしたら、この問題を「白」と「黄色」という対立概念で捉えがちなわたしたちキリスト者自身が、あまりにもその前で立ち往生しまうからではないでしょうか。わたしも他人のことをとやかくいえません。

 

 例えば、「梅原猛流の『キリスト教』即『西洋近代文明』それ故『自然志向の日本人とは」相性が悪い』という表面的解釈流布」にはいつもイライラしてしまうのを否めませんし、結局まんまとその挑発にのってしまうという次第です(人間がまだまだ出来ていないわたしには)。いうまでもなく一理ある(一理なんですが)から余計にイライラしますよね。

 

 つまり「欧米列強はキリスト教文化圏」によるものであることから、わたしたちキリスト者自身なかなかその枠組みを自分では抜け出せなかったりします。だって当事者が勝手に抜け出しては無責任ですからね。それには多大な時間を要します。その結果、つい「諦め」が先行してしまうのが常であります。まして「インカルチュレーション」なんて単純に「外観を日本人向けにしてしまえばそれで完了」といったものではありませんからね。

 

 しかも、ここでいう「日本人」とは、西欧化された明治以降の「現代日本人」ですし、それはわたしたち自身ですよね(梅原猛だって実はそうなんですよ。しかも学者としてこの点恩恵を被っておきながら何故か「例外者」然としているように見えます)。そのわたしたちは、キリスト教徒であろうと、なかろうと、なんとなく「黄色い顔して白い考え方」をして暮らしています。だから複雑ですよね。

 

 なんだかこの記事、「諸宗教対話」のほうに載せたほいがよかったような印象を読み手の方に与えかねないような内容になってしまいましたが、しかし、この記事の根底にあるものが「AさんとBさんとの対話」といった類のことではないことから、また、おもに教会内における「再宣教」のようなテーマに関するものだったので、こちらに載せました。

 

 まあ、なにはともあれ、今回はこれで終わりにしたいと思うのですが、最後にもう一度「宇宙のファンタジー」について言いますと、もはや初めて聞いたときから何十年も経つというのに、いまもわたしの「琴線」に触れているわけです。