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奉献生活者の関心

加藤 豊 神父

 

 教会の関心事は、イエスの関心事のはずですが、それらが広がれば広がるほど、それらを支える土台もまた否応なく広げられ、大きくされたりします。で、一旦、大きく広がってしまうと、中身を顧みることもままならず、とりあえず、それを維持しなければという責任を感じるわけです。

 

 交響曲ならオーケストラだけどジャズならトリオ編成だっていいはずだし、会場がホールかライブハウスかなんて、用途に応じて決まる話ですよね。それでも「縮小はマイナス」という物理的で類比的なイメージがつきまとう、というね。

 

 イエスの弟子の時代には、教会共同体が使用する場所についての悩みは、現在の教会人であるわたしたちのそれとは、相当に異なる状況にあったといえるでしょう。当たり前ですよね。

 

 その「使徒の教会」のその後もまた今とは違います。これまた当たり前なんですけど、でも、土地建物を持ったという意味では、現代の教会人であるわたしたちと同じです。当時ラテラノ家が「キリスト者たちよ、これを受け取るがよい」といって、その邸宅を寄付してくれたわけですが、そうなると、迫害時代当初のようにカタコンベに隠れる必要などは当然なく、そうしていた頃の教会を実感をもって思い出す人が少なくなるのも仕方ない。

 

 やがて迫害時代と真逆の時代、教皇が皇帝のように欧州を牛耳ってしまう時代などには、見えない力だった信仰は、たちまちこの世の権力に覆われていきました。それだけでも恐ろしいのに、更に恐ろしいのはそれからで、物事を動かしたり、人を支配したりする力が(公会議の度、信仰の次元では健全なものに整えられていったとはいえ)形の上では文化的に残されたりもします。

 

 だから、その後もなんとなく、見えない力が影を潜めて、見える力のほうに関心が集まったり、それを頼りにする傾向が見受けられると思います(フランス革命の本当のきっかけを思い起こせば明らかですよね)。そして、それはまた、その後の教会のなかにも残存し続けます。

 

 もう、そうなると、イエスの関心事をみずからの関心事としている人たちは(本来は全員そのはずだったわけですが)極端な場合、教会から出て行ってしまうか、あえて教会のなかにあって、小さな兄弟、姉妹としてなりを潜め、その時代の現実と折り合いをつけながらひっそりと生きていくことになるわけですね。その代表的な人物がアッシジのフランシスコだったといえるでしょう。

 

 もちろん、その他にも、世に知られないことを、みずからの誇りとする人たちの系譜は引き継がれて行ききます(みんな死んでから有名になっちゃうんですけどね)。現代でいうと、可哀想にマザー・テレサは生きているうちに有名人になってしまいましたが、いうまでもなくマザーは決して有名人になりたいなどという気持ちから活動していたわけではありません。そもそもそんなこと考えている暇のない活動ですよね。逆にヨハネパウロ二世は「毒をもって毒を制す」とばかりに旧メディアを頻繁に使いました。

 

 だから、どっちにしても肝心なのは動機なんですね。大切なことは、時代に翻弄されつつも、他人を煩わせず自分のいるぶどう畑で黙々と耕すことですよね。しかも収穫は主がなさり、自分の達成感なんてどうでもいいという感じで。つまり、そういう兄弟姉妹たちにとっての関心事というのは、イエスご自身の関心事に連なる関心事だけだったわけで、また、それに関連するあらゆる対象を伴う関心事ですから、その人たちを動かすのは、見えない力である信仰ですね。

 

 それは、この世的な権力や、ステイタスを基にした影響力や、自画自賛という類とは全く関係ない価値基準ですね。無論、実力は磨かれて然るべきです。努力を惜しんではなりません。ただ、それが自己目的だけであるなら、そういう類の力と、信仰から生じる見えない力とを取り違えてはなりませんね。

 

 人がこの世の力に憧れるのは原初的欲求ともいえますし、それは生きていく上で必要なことでさえあるでしょう。その意味では賜物も多いほうがいい。しかし、重要なのはそれを何に用いるかです。イエスご自身が自己目的の奇跡などなさらなかったのを見ても、奉献生活者の望みが、それと真っ向から矛盾するものだとしたら、そりゃおかしいことになりますよね。

 

 もっとも、見えない力で困難を乗り越えて来たのは奉献生活者だけではありません。この「奉献生活」じたいが一種むき出しの特権意識に落ちてしまっては身も蓋もありませんよね。というか、不味いですよね。

 

 小さき者であろうとすること、無名性、へりくだり、という価値観を持つ人は本当に目立ちませんから、沢山のカトリック信者たちのなかにあってひときわ身を低くして生きています。その姿勢にはまことに美しいものがあります。奉献生活者の関心事は、教会をはじめたイエスの弟子たちの関心事に由来し、その根底にはイエスの関心事(眼差しの対象)があって、それに沿えば謙虚で「ひたむき」な信徒の方々の姿というのは敬うに充分だから、そこにもやはり大いなる関心を示すことになります。

 

 そのような視点から眺めれば、この世的な権力(むしろ奉献生活者はそれに怯えたり、場合によっては立ち向かったり、とにかく手にしたくないのです)、ステイタスを基にした影響力(むしろ奉献生活者はそれを危険なものだと認識しますね)、自画自賛(むしろ奉献生活者はキリストの前でそれを誇示することを厭うでしょう)、そういうものは、何やら「大きな声のように」聞こえ、煩わしく思えてしまう。

 

 だから、その点では、それでいいのかなあ、と(いきなり気が抜けたらすみません)。

 

 そうそう、この「奉献生活者」という言葉には司祭も修道者も含まれますが、それはもとより、ここでは「在俗会」とか、それこそ「奉献生活者の会」とかそういう共同体のことも思い浮かべているようなところがあります。最初に書いておくべきだったのかも。