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コロナ禍にて今年の四旬節を振り返る②

加藤 豊 神父

 

地上的(世間的)感覚と「教会」

~わたしたちはどこへ向かうのか②~

 

3)「神との和解」と「隣人との和解」と「何はともあれ自分との和解」

 

 さて、およそ福利厚生の分野で垣間見られる事象としては、キリスト教的価値観の理想とはちょっと異なる「上から手を差し伸べる」という行為、なのですが、そこでは「手を差し伸べる側」にイニシアティブがあるために、下手をすれば「差し伸べる側」が「差し伸べられる側」に対して「支配欲」が生じます。

 

 カトリック系の施設は特にこの点に注意が必要でしょう。なぜなら「キリスト目線」は「上から目線」とは決定的に違うのですから。自分の力量を誰かのために使いたいという人は、特にこの種の「支配欲」に注意しなければならないでしょう。

 

 それに「お世話をすること」以上に「お世話になること」のほうが難しいという事実もすこぶるあります。「お世話になること」というのは、多くの場合、相手にイニシアティブを委ねることが出来るほどの「人間的度量の大きさ」を持っていなければならないし、いかにもそれらしいことをいうと、「信仰理解とはその信仰対象にイニシアティブを委ねた上で救済のメッセージを認識することからはじまるもの」だったりしますから、それは各人の信仰にも多かれ少なかれ現れますよね。

 

 人が何かを行うにときには、まず、協力してくれる人への非礼があってはならないし、権勢や大義で協力者を酷使するようなことになるなら恐怖政治と変わりませんね。確かに祈願文の言葉にしても「綺麗事だ」と批判するカトリック信者もおり、ある意味で、その人たちのいわんとすることはよくわかるのです。

 

 とはいえ「聞こえてくる美辞麗句は偽善的だとしながら自分の本音や願望には分厚いオブラートを何重にも巻いていて、しかもその自覚はない」というのでは、話になりません。「美辞麗句に聞こえる本音」と「一見リアルで解り易く誰でも納得できる受け狙いの批判」とを比較したとき、聴衆を前に語るとき、恥を偲ぶほどの勇気がいるのはどちらのほうでしょうか(後者は先述のS師の指摘の対象でもあり「かっこいい」わけです。稚拙ですけどね)。

 

 ここでは大げさな「リーダー論」などを扱う気は毛頭ありません。ただ、周囲の眼差しからすれば「この人をどこまで信じていいのだろう」という戸惑いを抱かせる指導的立場の人たちは、教会の司祭であれ、世間一般の役職であれ一定の割合でいるわけです。

 

4)いわゆる「回心」は「改心」とちょっと異なる「視点の転換」

 

 しかもそういう人たちは、本心から共に歩んでくれる協力者を求めてやみません。そのような渦中で「体当たり」で関わることも誠実さの表明となるかもしれません。むき出しの自己目的を表明して周囲の人に「そんなのおかしいよ」と叩かれ、それをきっかけに回心して接し方が変化し、結果、周囲の信頼を勝ち得る、というほうが、ずっと幸せなケースだと思います。

 

 ところが、「叩かれたくない」というケースがほとんどでしょうし、「叩く(という優位性のある)側でいたい」という人は当然います。誰でも人間であるならば、それが尋常なことで、それが人情なのかもしれません。でも、だとしたら最終的に前向きな「諦念という自己受容」によって他者との調和をはかるという選択肢だってあります。それなら「この人は自分で自分がわかっているな」と受け入れられ、周囲の人は「困ったものだ」と同時に「その人らしさ」も理解されるであろう可能性もあるわけです。いや、そのほうが、かえって多方面に付き合いが広がり、観えてくる世界も広がると思うのですが。

 

 ところが、自己評価が高すぎて「そういうのはなんだか屈辱的だな」と回避してしまう、となると、もう、そこがどんな次元の共同体であれ、その内側では、どこにも落ち着きどころが見つからないところまでになってしまうでしょう。やはり背後に潜む支配欲とか、虚栄心というのは恐ろしく、はじめは自己肯定的に自分を前進させてくれるかと思いきや、結局、自分を苦しめることになりがちです。

 

続く③

 

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