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コロナ禍にて今年の四旬節を振り返る③

加藤 豊 神父

 

地上的(世間的)感覚と「教会」

~わたしたちはどこへ向かうのか③~

 

5)不安な現状を生き抜くための平安を携えて

 

 だから、祈りにおいては「謙遜」と「み旨を訪ねる姿勢」を、隣人との関わりにおいては「人望と信頼を築くための対話」を、協力してくれる人材を探し求める時、一人では成し得ない事柄においては、何より「一度も会話をしたこともない人たちとの交流」を、そういった「ひたむきな前進」なしには、いつまでも落ち着くところが見つけ難い。

 

 心のそこから感じる解放感が遠ざかれば不安が増すことさえある。聖書には「キリストを着る」という表現があります。これは象徴的な表現ですね。わたしたちは、父なる神様から「キリストを着せていただいた者」です。しかし、「地上的な着せる支配」は、わたしたちに「見た目には悪とは思えない」厄介な悪を必死になって着せようとするし、そうされるまでもなく、みずから「それ」を着たがる人だってたくさんいます。その「見た目には悪とは思えない」ものは、ひょっとしたら「巧妙に薄められた悪」です。怖いですよね。支配欲も、虚栄心も、野心も、見栄も、嫉妬も、一目では善悪がわからない。

 

 まあ「嫉妬」は悪かどうかという以前に「いい感じがしないもの」といえますよね。で、「支配欲は責任感とよく似て」おり「虚栄心も当事者意識の強さと」よく似ています。「野心は大志と似ている」し、「見栄」も「軽んじられることを避ける社交術なのかも」しれず、「嫉妬」は「ライバルとの切磋琢磨に擦るところがある」のかもしれません。

 

 つまり、じっくり見てみないとそれらの善悪がわからない。その意味では、それらが直ちに問題なのでは決してないし、それどころか、「ときにはそれらが落ち込んだ人にとっては立ち直るエネルギーとなる」こともあるでしょう。ただ、それらがもとで、人間関係が台無しになってしまうことがあるのも確かなことです。それなのに、人は皆よくわからないまま「人はそれを着ようとしたり、着せようとする」のであって、人目には「なんだか嫌な感じだなあ」という印象を周囲にあまりにも容易に与えてしまう。

 

 だからといって自分を棚に上げて「改心しろ」と言うのはいかにも偉そうに聞こえてしまうことがあるし、それは表面的克服の域を出ないメッセージです。「上から目線」で「改めよ」と訴えるなら、それは「裁き」の意味合いを含めたイメージでしょう。それゆえ「一緒に改心しましょう」というほうが丁寧な気がしますが、そもそも教会用語には「回心」と「改心」があるので、「回心しましょう」なら、いろいろなときに、いろいろな人に、これは勧めたいとわたしは思います。

 

 「心」を「回」す。それは視点の転換をも意味し、相手の気持ちになって考えてみるとか、そういう意味合いも含む言葉となります。観念の修正の如き「振り返り」すなわち「回心」は日々のことでもあり、全てのキリスト者にとって必須な要素です。

 

 「霊の結ぶ実」を結ばせるのは日々の回心で、キリスト者は、カトリックでもプロテスタントでも、これを「霊の実を結ばせるもの」として大切にしてきました。人は一人では生きていけません。それは一人では充分な生活がままならない、とか、孤独がよくないものだとか、そういうことではなく、ごく単純に、人は人のなかで生きるもの、というくらいの意味でお聞きくださればと思うのですが、それでいながら、人が人のなかで生きるのは、けっこう大変だという現実があって、これもまたごく単純で現実的な話です。

 

 そのような背景を意識しながら、少なくとも思います。まことの平安は、およそ自己目的のみに根ざした要求の達成によって満たされることがないであろうことは、キリスト者であれば「回心」によって、気づかされる実感でありましょう。否、キリスト者以外の人たちであっても、複雑化を極める現代社会の人間関係を目の前に、視点の転換の必要性に気づかされる「あれこれ」は、いまや本当は皆が薄々、予感していることなのではないでしょうか。それを認めることが出来るか否かだけが問われているのかも。

 

終わりに

 

 わたしがこのようなコラムを書くきっかけになったのは、コロナ禍での種々の職場での人事異動などで、急に責任ある立場に着くことになった方々からの相談や、また、現在、教区が抱える司祭不足の問題などで苦悩する地域の人々との対話、それを通して感じたこと、その他、コロナ禍において、わたしたちは「教会とは何か」をあらためて認識しなおさなければ現実にしばしば向き合わざるを得ず、更には、教会において将来的に望まれる成熟した信徒代表者を欲する各共同体の人々が抱く渇望などを前に、自分なりに思ったことなどを書き留めておきたかったから、という気持ちが動機として大きいといえます。

 

 そして、それらのことは、これからも、考え続けていかなければならないと、あらためて思えたからでした。

 

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