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ポンテオ・ピラトを憎めない

加藤 豊 神父

 

 わたしは最近、ローマ総督ピラトにおかしな親近感を感じます。

 

 ピラトは概ね流され易いところがあり、大衆迎合的で、覚悟が半端、解決能力なし、優柔不断な感じ。ちなみにピラトの後任はガリオ、その弟はセネカ、つまりピラトのようなタイプではなく彼らはストア哲学者です。だから流石ですよね。ピラトと違いキッパリとものをいう勇敢な人たち、現代の政治家さんには、ガリオタイプはあまりいなくて、ピラトタイプが多いでしょうね。残念ながら、こういう人がトップに立つと、その下で働く人は苦労するでしょうね。

 

 ピラトという人は、どういう人物だったのでしょうか。わたしたちにとって、なんとなく悪役とされているこの人は、群衆を恐れて結果的にイエスの死刑宣告を是認してしまいます。

 

 いわば「世論に弱みを握られた政治家」のようなところがあります。このときも群衆に暴動を起こされればそれを鎮圧しなければならず、そんなことになれば、ピラトを総督に指名したローマ帝国からの評価も当然下がります。「ピラトを総督として派遣したものの結局あいつは担当地域を上手く治めることが出来ないダメな奴だった」などと囁かれてしまうかもしれない、という、そんな想像がピラト自身に生じるのも当然でしょう。このときの判断の結果次第では、ピラトは左遷される可能性だってありました。

 

 このようなピラトを「度量が狭く」「器が小さい」と批判することは容易いし、わたしも決していい印象は持てません。ただ、人間には誰しも多かれ少なかれこういうところがあります。おそらく、それを自覚することで人は他者への偏狭さや、矮小さから解放されるのだと思いますし、そのためには自らを振り返って見なければなりません。

 

 ピラトの例はほんの一例で、十字架の道行きに登場するすべてのキャラクターを、単純に「敵か、味方か」あるいは「いい人か、悪い人か」と分けて見ても実はあまり意味がない、と思うのです。むしろ、人の心の奥深くが、それぞれの登場人物によって浮き彫りにされる内容で、皆が皆、どうにもならない構造悪ともいうべき渦の中に巻き込まれながらそこにいた、という点にこそその状況から全人類を救済したいという神のみ旨(神の側の願い)すなわち、イエスの受難の核心が秘められているのだろうと思います。

(この文は、今年の四旬節「十字架の道行き」の第1留に関する加藤神父の講話に加筆した記事です)