さくらまち 185号(2017年10月1日)より


◆ 聖母月特別講話

◇ マリアの神秘、教会の神秘 ◇

 

けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会

Sr.ルカ岡立子

本日は、「マリアの神秘、教会の神秘」についてお話しながら「信じた幸いな者」マリアの姿の一片を、ともに見つめることができたらと思います。

 

神が宿る

 

東方正教会では、典礼や信仰生活に欠くことのできないものとしてイコンがありますが、「燃える柴の聖母」というイコンは、マリアの神秘をとてもよく表しています。

 

「出エジプト記」でモーセが見た燃える柴には、神が現存しています。マリアは神の炎を自分の中に宿しながら、傷つかず燃え尽きないのです。神は聖なるものであり、聖ではない人間は神とはコンタクトできない存在ですが、神は新約の時代に一人の乙女の胎に宿りました。これは信じられないことなのです。

 

神のパラドックス(逆説)

 

わたしたちは、この世の価値観の中で生きていますが、キリスト教を知るには神のパラドックスを理解することが必要です。

 

降誕を描いたイコンがありますが、そこには人間の理解を超えた神の神秘を黙想している母マリアの姿があります。信じるように招かれたヨセフは頭を抱えています。つまり、これが人間の姿です。

 

「神は降りてきた。人となるために。人が昇って神となるために」という教父たちのことばは、「主の過越」の下降と上昇という神のパラドックスを表しています。神との約束を破った人間ですが、ご自分の生命を共有するものとして人間を創られた神は、天から地上に向けて下った梯子を天使が昇り降りする「ヤコブの梯子」に見られるように、神が自ら降りて来てくださるのです。

 

神の子キリストは、降誕によって地上に下り、十字架の死という究極まで下降しました。そして人間の姿で復活したキリスト、その下降と上昇は、聖なる交換と言われています。しかしヨハネ福音書では、「十字架に上げられる」ということは神の栄光であると言っています。復活の時ではなく、十字架の時がキリストの栄光なのです。

 

この栄光を表現するイコンがあります。父のみ心に最後まで忠実に従ったイエスは、十字架において栄光を受けています。傍らにいるマリアは、嘆き悲しむ母ではなく、救いの神秘を黙想している者の姿です。マリアは、お告げの時から十字架の下に立つまで、ずっと信仰の旅路を歩み続けていました。わたしたちは自分の道に迷った時、このマリアの場所に帰るのです。

 

マリアの神秘

 

マリアは教会(場所)の姿と言われています。神は全ての民を一つに集め、その共同体の直中に、神は永遠に住まわれるという旧約時代のイメージを、マリアの中に見ることができます。マリアの胎の中にメシアである王が来る、母である教会の直中にキリストがおられるということです。

 

お告げの出来事を考えてみましょう。神の子を宿したことを知ったマリアは神のことばに従います。これは神と人間が、これ以上ないほどの絆で結ばれたということです。神はご自分に積極的に従うイスラエルの民を長い間教育してきましたが、その実りがマリアなのです。

 

ミケランジェロが晩年に作った未完成のピエタがあります。母と子が離れられない、二人は飛んでいくかのように表現されています。マリアの霊性はこれに尽きると思います。