さくらまち 187号(2018年8月26日)より


◆ 司祭の言葉

◇ 「死んでも生きる」って? ◇

 

カトリック小金井教会小教区管理者

加藤 豊

一人一人の異なる生涯

 

 4月の着任から今日までのあいだ、たびたびお葬式がありました。

 

 小金井教会では葬式が多いと、それとなく聞かされていました。察しますに多分、今現在はじつはそれほどでもなく、以前は今よりもっと多かったろうと思うところがございます。

 

 ともあれ、お葬式のたびに感じるのは、一人一人の生涯がまるで異なるものでありながら、その一人一人が同じ信仰を生きた末にたどりつく地点として、葬儀の日を迎えるという実感です。

 

 ご存知のとおり、教会葬であれば当然その儀式書にそって行われるわけですから、その意味で特定の形があります。それでも細かい点において、ひとつひとつの葬儀は、あたかも一人一人の生涯が異なっているように異なります。

 

 形あるひとつの儀式の枠内において、それでいて多くのバリエーションが取捨選択されます。どのようにすれば、その故人をふさわしく追悼できるかを模索する営みは、その営みの段階から、故人をしのぶことになっているのかもしれません。

 

会ったこともない人と会う気持ち

 

 正直なことを申しますと、司祭たちは、生前一度もお会いしたことのない人のお葬式をあげることが多々あるのです。

 

 ただ、そんなとき、そこでちょっと不思議な感触を覚えることがあります。それはどんなものかというと、ご遺族と接するたび、そこに故人の姿が生き生きと浮かびあがってくるような感覚なのです。

 

 その人の存在が、家族やお友だちとのかかわりの中から垣間見られるために、たとえばわたしの場合ですと、何だかご本人とお会いしたことがあるような錯覚に陥ってしまったりするのです。

 

 「錯覚」といってしまうと、故人に対してちょっと冷淡かもしれませんね。実際、死者は生前、ともに生きていた人たちに、忘れがたい種々の印象を残しています。その記憶から語られるご様子には、しっかりとした存在感がともなうのは当然のことなのかもしれません。

 

主がいま生きて、ともにおられるということ

 

 主イエスは、「わたしを信じるものは死んでも生きる」と仰せになりました(ヨハネ11・25)。「死んでも生きる」とはなんと奇妙な表現でしょう。いや、「奇妙」というより「絶妙」であります。こういうしかないのだと思います。

 

 パウロは、ガラテアの信徒への手紙の中ですいっています。「キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテア2・20)。

 

 まことにわたしたちは、お葬式のたびごとに、ご遺族の中に生きる故人と、出会わせていただくことになるのです。生前のその人を知っている場合はなおのこと、このわたしの内にも、その人の命の躍動が続いているように思えてならないのです。

 

 いうまでもなく、キリストの復活とわたしたちの復活には、ちがいがあることにもふれなければなりません。でもご遺族や親しかった人たちのあいだで、生きている亡くなった方々の存在が感じられるような経験は、ひょっとしたらとても身近な復活体験といえるようなものかもしれませんね。