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縺れた糸 ②「説明不足な専門家」

加藤 豊

現代日本社会での宣教論を構築する場においてこれまでの複雑に絡み合った糸をほぐすような作業はあまりなく、本当は気になっている部分がなんとなくカットされ、それよりも現状認識や人間論からスタートしているものが殆どなのです。

 

日本は先進国でありながらキリスト教国ではありません。だから土着化も今からでは難しいほど遅すぎる感があります。そして何より、皆知らんぷりで素通りしているかのようなキリスト者は多いが、かつての列強の暴挙や人種差別、その背後にあったキリスト教という巨大な骨格を、今や克服された事としてわたしたちのほうからあっさりと切り離してしまうものだから、梅原猛氏程度のあまりにもザックリとした説明にさえ、普段は懸命な知識人たちまで納得させられてしまい、誤解されたキリスト教理解が蔓延していますよね。

 

梅原さんのキリスト教理解は現代日本社会における一般的なキリスト教理解の度合いからしても、非キリスト者の方や無宗教の方からさえ「流石にこの(梅原さんの)キリスト教観はちょっとねえ」という声をよく聞ききます。

 

いつまで経っても最終的にはキリスト教は西洋近代文明のバックボーンであるかのように梅原さんは語るので、アジア・アフリカにおける教会の事情を梅原さんは知っているのでしょうか?一旦土着化してしまえば現地の文化の一環として機能する実例を挙げればきりがないと思うのですが。

 

さて次に、キリスト教の「排他的イメージ」について触れたいと思います。梅原さんもここには特に言及が多いように思いますし、その意味でも縺れた糸が更に縺れることになる一番厄介なテーマだと思います。本当にキリスト教が排他的な現状があるなら、なぜ、現代日本社会においてある程度でも福利厚生の事業体が機能しているのでしょうか?もちろん彼は活動のこと以前に教義についていいたいのでしょう。

 

しかし、それをいうなら、むしろ「排他的」といわれる特徴や、分類上の「一神教」といった傾向が当てはまる日本生まれの信仰も多々あります。親鸞聖人の研究もされている梅原さんからすれば、この「一神教」的教義についておそらくかなり詳しいはずなのに(浄土真宗も本来は弥陀一仏への信仰なので「拝一神教」に分類されるのですから)そこは通過してしまうのです。しかもその飛び越え方が無茶なのです。即ち「そもそも日本人『和』の民族なので排他的な信仰がそこから生じることがない」といった具合に、論理がすり替えられるわけです。

 

エッセイストのブログ記事ならともかく、哲学者であり仏教研究者の立場で、かなりの功績を残した偉人でさえある人が「なんとまあ」と思われてしまわないでしょうか?