待降節の意義を思い巡らす【はじめに】

G.T.
加藤神父監修

 

 おそらく、クリスマスの物語は多くの人にとって、聞き慣れすぎてしまったかもしれません。毎年12月になると,クリスマスカード、馬小屋やクリスマスツリーの飾り付けなどを見かけると、宗教と関係なく、ほんの一瞬でも、クリスマスの物語が頭をよぎるのではないでしょうか。もちろん、「いや、別に…」という人もいるだろうと思います。

 

 キリスト者である私たちもまた、ミサの中で読まれる「主の降誕」にまつわる聖書の箇所を聞き、聞き慣れたクリスマスキャロルを歌ったり,教会を飾る見慣れた絵画や彫像などを目にしたりします。とは言え、私たちは,クリスマスの基本的な概要があまりにも馴染んできたため,主の降誕の神秘と、その深遠な本質を見落としてしまうときもあるかもしれません。

 

 おそらく、ご出産になる聖なるおとめ、飼い葉桶に寝かされた聖なる幼子、天の大軍と天使が羊飼いたちの前に現れたことなどは、もはや私たちの注意を惹きつけることはできなくなった、ということもあるかもしれません。

 

 しかし、もしも、私たちが1世紀のユダヤ人であり、クリスマスの話を初めて耳にしたとしたら、どうでしょうか。キリスト教の黎明期におけるそれらの出来事は、決して当たり前のこととは見なされないでしょう。なぜなら、それは、私たちの民族が何百年も待ち望んでいたすべてのことが、今や成就に向かっていることを示しているからです。

 

 この特別連載を通じて、私たちは1世紀のユダヤ人の視点に立ち、主の降誕にまつわる出来事が記されている聖マタイと聖ルカの福音書に含まれる、多くの霊的な宝のいくつかを発見することによって、あらためて「待降節」の意義をより深く思い巡らすことができればと、願っております。

 

 主の恵みが私たちに与えられ、主の祝福の内に良いクリスマスを迎えることができますように。

 

 

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わかちあい【特別連載】