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待降節の意義を思い巡らす(2)「久しく待ちにし、主よ、とく来たりて」

G.T.

 

 

久しく待ちにし、主よ、とく来たりて

 

 ルカによる福音書は、天使ガブリエルから、洗礼者ヨハネの父となるザカリアへの喜ばしい知らせを伝える場面から始まるのに対して、マタイは主イエス・キリストの系図から福音書を始めます。

 

 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。(マタイによる福音書1章1節)

 

 この長い系図(同1章1~16節)を読むと、「ちょっとつまらない」と思われるかもしれませんが、1世紀のユダヤ人の視点からは、完全に魅惑的でしょう。なぜなら、それぞれの名前は大いなる物語を語り、イスラエルの歴史における多くの重要な出来事、場所や時代を思い起こさせ、最後に、長い間待ち望まれている、新たな王である「メシア」(油注がれた者)を明かすために築き上げられているからです。

 

ダビデ王

 

 エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデは…ソロモンをもうけた。(6節)

 

 ダビデ王とその息子ソロモンについて読んだ1世紀のユダヤ人は間違いなく、イスラエル王国の栄光ある日々を思い出すでしょう。この二方は、イスラエルを歴史上最も偉大な時代に導いた古代王室の英雄たちでした。ダビデとソロモンの時代には、イスラエルの国民性を表す3つの重要な象徴である「土地」「王」「神殿」が最も明るく輝いていました。


 まずは、神がご自身の契約で結ばれた民の居場所として、「約束の地」を与えられ、その場所でご自身の民を祝福されました。ダビデとソロモンの導きの下、その神聖な約束の地がイスラエルのために確保されました。


 つぎに、神がダビデの家と交わした契約に基づく「王国」は、普遍的な範囲を持ち、地の果てまで広がる永遠の王朝となることが約束されました。その王朝がダビデ王とその息子ソロモンの上に確立されました。

 

 そして、エルサレムの「神殿」は、単なる礼拝の場ではありませんでした。ユダヤ人は、天地を創造した唯一の真の神が、この神聖な場所にユダヤ人と共に宿っておられることを信じていました。ダビデが主の神殿の必要性を思い描き、ソロモンによってエルサレムで建てました。


 それゆえ、1世紀のユダヤ人がダビデとソロモンについて読むとき、彼らはイスラエルの歴史の中で最も高い頂点、すなわち、イスラエルが土地を持ち、王がおられ、神殿に全能の神が彼らの間に宿っておられた時代を思い出すでしょう。


バビロン捕囚

 

 ヨシヤは、バビロンへ移住させられた頃*、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。(11節)
*注)バビロン捕囚当時(列王記下24・14-16、歴代誌下36・9-10, 20-21、エレミヤ27・20参照)

 

 最も輝かしい時代が思い出された後、系図を読み続け、ヨシヤという人物にたどり着くと、最も暗い時代となった「バビロン捕囚」という、紀元前586年の悲劇的な出来事が思い起こされます。この箇所は、バビロンがエルサレムに侵入し、捕囚としてユダヤ人を追放させたときに失ったすべてのものを彼らに思い起こさせます。それが、イスラエルの国民性を表す3つの偉大な象徴である「土地」「王」「神殿」が失われた瞬間でした。バビロンは彼らの土地を占領し、神聖なる神殿を破壊し、王とその民を捕虜としてバビロンに追放させました。


 70年の歳月を経て、彼らがその追放から戻ってきたときでさえ、神殿が建て直されても、2つの重要なものを失ってしまいました。それは「王」と「神の契約の箱」(神の臨在)です。実際、主イエスのご降誕の時、ユダヤ人はまだこの悲劇の結果に苦しんでおり、自分たちの土地がなく、彼らには、彼らを治めるダビデの子がいませんでした。そして、彼らはまだ、神殿で再び一緒にいてくださる神の臨在を切望していました。

 

呼び起された希望


 しかし、神は、ユダヤ人の苦しみの中に希望を与えられました。預言者たちを通して、いつの日かダビデの新たな子孫、「メシア」と呼ばれる新たな油注がれた王が遣わされることが約束されました。

 

 バビロンへ移住させられた後、…シャルティエルはゼルバベルをもうけ、ゼルバベルはアビウドをもうけ、アビウドはエリアキムをもうけ、…(12節、13節)

 

 マタイの福音書は、この系図の転換点となる「ゼルバベル」という人物の登場によって、希望を呼び起こしています。紀元前515年にエルサレムを再建した指導者の1人であるゼルバベル(エズラ書1~6章参照)が、ユダヤ教の聖典に公的な記録がある最後のダビデの子孫を表しています。その時代から主イエスの時代まで、ダビデの子孫に何が起こったのかはほとんど知られなく、謎のままでした。つまり、ゼルバベルの代以降、ダビデの子孫の系図が隠されていましたが、マタイがこの福音書の中でそれを明らかにしたということです。


 このことを知った福音書の本来の最初の聞き手にとっては、「ダビデの子孫はゼルバベルの後も、何世代にもわたって続いていたのだ!」と、とてもワクワクすることになるではないでしょうか。「この系図の最後に登場する人物が、預言者たちが預言した、私たちの王となるダビデの究極の子ではないか」という大きな期待がもたらされることになるでしょう。

 

メシアである王の帰還


 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。(マタイによる福音書1章16節)

 

 ついに、ダビデの子孫は、イスラエルの歴史をその究極の目的地へと導くことになる、「油注がれた子」と共に頂点に達します。この聖なる子の重要性は、マタイによる福音書のこの冒頭の章で、彼が授かっている「イエス」「キリスト」(1節)「インマヌエル」(23節)という3つの称号から分かります。


 「イエス」という名前はヘブライ語で、「神は救われる」という意味です。主の天使も、その子にこの名前が与えられた具体的な理由を強調しています―「この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)。


 ユダヤ教の聖典によると、「約束の地」を失ったのはイスラエルの罪だったからであり、罪がその追放につながりました。それゆえ、イスラエルが直面した最も深い問題は、土地からの追放ではなく、神からの追放だったのです。「この子」は、彼らの土地を占領しているローマの勢力からではなく罪のはるかに深い抑圧から、イスラエルを救うために来られました。

 

 そして、主イエスは「キリスト」という王室の称号が与えられています(16節)。新約聖書では、ギリシャ語の「クリストス」という言葉は、ヘブライ語の「メシア」(油注がれた者)の訳語としてよく使われていました。 これは将来のダビデの子の称号であり、預言者たちは、彼が王朝を復興し、世界的で永遠の王国についての約束を果たす、と預言していました。マタイが記しているこの系図は、主イエスこそが「メシアである王」であり、5世紀以上にわたって君臨した最初のダビデの子であり、イスラエルに王国を復興させるお方であることを、喜びをもって宣言しています。


 最後に、おそらく、主イエスに与えられた最も深遠な称号は、マタイによる福音書第1章の終わりに出てきます―主イエスは「インマヌエル」と呼ばれ、「神は私たちと共におられる」という意味です(23節)。


 神の目に見える臨在は、500年以上もエルサレムの神殿に宿っておられませんでした。王がおらず、自分たちの土地を所有することもなく、とりわけ彼らの間に主の栄光が宿っておられなかったため、1世紀のユダヤ人はどこか見捨てられたように感じていたかもしれません。多くの人は、イスラエルに対する神の約束と、神が彼らの先祖に交わしたすべての偉大な約束がどうなってしまったのかを不思議に思っていたでしょう。彼らは確かに、神が再び彼らと一緒にいてくださることを切望していました。

 

 そのような不安と不確実性の中で、マタイは、この系図の最後に出てくるお方こそが「インマヌエル」であることを宣言しています。言い換えれば、「神は再びご自身の民と共におられるのだ!」ということです。それに、最も驚くべきことは、神がかつてないほどご自身の民と共におられるのです。遥か昔は、神が神殿に雲の形でご自分の存在を現わされましたが、今は、神である主イエス・キリストが実際に彼らの間に住まわれます。

【黙想】
 今日、「神は私たちと共におられる」ことをどのように知ることができるのでしょうか。

祈りましょう。
        主イエス・キリスト、インマヌエル、
        この世界に来てくださって、感謝いたします。
        この待降節を通じて、私たちの日頃の生活の中で、
        あなたの存在にもっと気付くことができるように
        私たちを力づけ、急いで助けに来てください。
        アーメン。

(続く)

 

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