2020年4月19日 復活節第2主日(神のいつくしみの主日・白衣の主日)

ヨハネによる福音書20章19節~31節

 

東京教区

油谷 弘幸 神父

 

神のいつくしみの主日・白衣の主日にあたって

 

 

 復活のイエスが私の救い主キリストとしておいでになることに気づいたばかりの頃、それは、21か22歳くらいの時だったけれども、よく日常、口ずさんでいた曲が「いつくしみ深き」の讃美歌だ。


いつくしみふかき ともなるイエスは つみとがうれいを とりさりたもう

こころのなげきを つつまずのべて などかはおろさぬ おえるおもにを

 

いつくしみふかき ともなるイエスは われらのよわきを しりてあわれむ

なやみかなしみに しずめるときも いのりにこたえて なぐさめたまわん

 

いつくしみふかき ともなるイエスは かわらぬあいもて みちびきたもう

よのともわれらを すてさるときも いのりにこたえて いたわりたまわん

 

カトリック聖歌657・讃美歌312

 

 罪、とが、憂い、心の嘆き、弱さ、悩み、悲しみ、そして、世の友に見放され、孤独な我が身、我が身の至らなさ・・・打ちひしがれるようにカツカツ生きている情けない自分を、イエスは慈しみをもっていたわってくれる。

 

 口ずさみつつ、涙があふれてくる、口に出して歌わなくても、アタマのなかで曲を流していると、おのずと目に涙がにじんでする。誰も友がいなくても、この世で何の希望も持てなくても、イエスは「いつくしみ」深く、私に寄りそってくださっている。

 

 このことが実感され、イエスの「いつくしみ」を感じて、泣けて泣けてたまらなくなるのだ。自己憐憫も籠っていたかもしれない。でも、もっと力強く、イエスの私に対する「いつくしみ」、愛を感じ、それは確実なものだと思えるので、希望に満ち、自分を前向きにしてくれるという意味で、自己憐憫とは異なるものだったと思う。

 

 私にとって、考えてみたら、「いつくしみ」という言葉は奇妙なものだ。

 

 上のような体験は実際にあるのに、日常的には、自分からは「いつしみ」の言葉はめったに使われない。「慈愛に満ちた」といった表現をすることはある。「子供を慈しむ」という言い方も自然に出てくる。しかし、何か他人事というか、自分との強い関わりの中で使われることはあまりないのだ。

 

 この原稿を用意していて、「いつくしみ」をネットで検索していたら、高名な指揮者・三澤洋史氏の文章に出会い、misericordiaが、日本語で「いつくしみ」と訳されてしまうと「きれいなのだが言葉に具体性がなくなってしまう」と評されていて、我が意を得た思いがした。

 

 また、上智大学教授のホアン・アイダル師は、神学講座の案内文の中で、「いつくしみ」はキリスト教の思想では中心的で重要な概念の一つでありながら、必ずしもその意味内容が明確ではない、とはっきりと言われていた。師は、この言葉には、少なくとも三つの意味「ゆるし」「奉仕」「他者への開き」が含まれているという。う~ん、なかなか複雑なものだ・・・。

 

 元来の言葉は、ヘブライ語のヘセドであり、ギリシャ語エレトス、そして、ラテン語ミセリコルディアと、それぞれの言葉に共通の意味合いと、その言葉独自の意味合いを含んで、訳によっていろいろな言葉が付される。一つ一つ丁寧に見ていくと、本当に多種多様な言葉があって、アタマが混乱する。更に、この翻訳のバトンタッチの末に、私たちのもとに、日本語の「いつくしみ」の訳語があてられ、更に更に混乱を極める。「いつくしみ」は「あわれみ」の語で訳されることもある。慈しみと憐みはどこか一つに重なるのだ。ラテン語のmisericordiaだと、私たちには「憐れみ」の方がぴんとくる。

 

 更に見ていくと、それが「恵み」と訳される場合もあるとのことであった。「いつくしみ」「あわれみ」「恵み」この混合ミックスは、一体どういう、クオリア、質感なんだ!!自分の中に追体験できない。

 

 ただし、この「恵み」という訳語に出会うと、ちょっと合点がいくことがある。つまり、人間がひねり出したり、作り出したりすることができるものではなく、恵みとして与えられるということだ。だから、人を憐れんだり、慈しんだりということを、人間が自発的に作り出すことはできない。対する相手から、私の中に引き出されてくるものなのだ。う~ん、引き出されてくるのを待つしかないのだな。

 

 今日は、また白衣の主日とも言われる。古代の求道者が長年月かけてキリスト教要理を学び、特に、復活祭の洗礼に向けて、40日、徹底的な要理の勉強と断食と祈りに励む。そして洗礼に臨む。洗礼後、キリストを着たしるし、キリストに沈んだしるしとして、白い衣を一週間着て、今日、それを脱ぐのだ、もう、白い衣に象徴されるものはいらない、彼、彼女自体が、「白い衣」、新しい人そのものになったのだ。見える印はもういらない、白い衣そのものとして生きるのだ。

 

 この白い衣の実体として、その立ち位置から、世間を、社会を、周囲の人々を眺め渡してみる時、そこに開ける視野は一体どのようなものだろう。きっとそこから見える景色の中にこそ、健気に一所懸命生きる人々、生きとし生けるものすべて、広がる山川草木・・・そのような展望の中に、自然な感情として、「いつくしみ」の気持ちは引き出されてくるのかもしれない。白い衣の立ち位置に立ってからこそ、いつくしみ、あわれみ、恵みの混合体験を実体験できるのだ。

 

 私の視野はどうも曇っているようだ。洗礼によって、私もその「白い衣」を身に着けている筈だが、今は、私の衣は大分薄汚れてしまっている。そのために、私の視界は、世俗に曇っている。神が私によせる「いつくしみ」に涙した日、「いつくしみ深き」によってイエスの慈しみを強烈に感じ、涙した、あの日々は、既に、遠い。ちょっと悲しい。大分悲しい。汚れちまった悲しみだ。

 

 今日この日、心を込めて祈りたい。

 

 主よ、こんな私に慈しみを。